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『クレヨンしんちゃん:嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』は、何故オトナたちの心を掴んだのか。

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©臼井儀人/双葉社・シンエイ・テレビ朝日ADK 2001

 

※本記事はネタバレを含んでいます。

 

 

あらすじ

舞台は21世紀初頭。

昔懐かしいのテレビ番組や映画、暮らし等が再現されたテーマパーク「20世紀博」が日本各地で開催され、家族連れで溢れかえっていた。

野原一家を含む世の大人たちはみんな、過去を懐かしみ、連日のように20世紀博を満喫していく。

しかしある日、ひろしとみさえが子供に戻ったかのように生活態度が堕落的に変貌してしまう。

半ば家から追い出されるようにしんのすけとひまわりが外へと飛び出すと、大人たちは仕事も何もかも投げ出して遊び呆けている。

そしてやってきた「お迎え」の車に大人たちは次々と乗り込み遠い場所へと連れていかれ、子供達は大人の居なくなったかすかべに置き去りにされてしまう。

これは「20世紀博」を創立した悪の組織「イエスタデイワンスモア」が、懐かしい匂いを世界中に振り撒くことで大人たちを懐古的心情に浸らせて洗脳し、子供の心に戻して世界を20世紀のまま止めてしまおうという計画の始まりだったのだ……。

 

 

前書き

クレヨンしんちゃんは2017年時点で、最初の劇場版が公開されてから25年の月日が経つ。

20代半ばあたりの人は、きっと今日に至るまで多くのクレしん映画を観てきたことだろう。そして、その誰もが各々の心の中に「マイ フェイバリッド しんちゃん映画」を持っているに違いない。

今回は、それら中でも特に名作と名高い『オトナ帝国』が何故、多くの人の心を掴み大傑作と呼ばれるまでに至ったのかを分析してみたいと思う。

 

クレヨンしんちゃん」に対する「共通認識」という下地

クレヨンしんちゃんと言えば、誰もが知っている人気キャラクターである。

ご存知TVアニメ版は、比較的"日常面"にフォーカスされた話が多く、野原一家の平凡な日常を切り取ったギャグアニメだ。

しかし、映画版では一転して、そういった日常を浸食していく”非日常”の世界観を原作漫画の特別エピソードに近いアプローチで描かれていく。

つまり、劇場版クレヨンしんちゃんとは、誰もが共通認識として持っている「野原家の日常」を前提としておいたファンタジー作品というフォーマットとなる。

そして、しんちゃん映画が大人と子供両方から支持されるのには、その「共感性」の高さがある。

基本的に、人が作品を認識する時に「リアル」だと感じるか否かは、その人が自分の記憶と比較した際の一致性で決まる。

自分の五感で得た体験受けた事のある感情という人生経験に基づいて、作品で描かれている内容の一致性が高ければ"共感"という形で無意識下でも作品に対して没入感を得ることができる。

逆に、これらの一致性が低ければ「バーチャル」として認識される。

これを利用して、強い共感を感じられるシチュエーションから「こうだったらいいのに」というバーチャルの落とし所に持っていくと、それがカタルシスへと繋がるのだ。

数年前にヒットした半沢直樹も同じ理屈だし、最近だと「LALALAND」が様々な人達から賛否両論を巻き起こした要因の1つもこの理屈だと考えている。

では、この共感性が具体的に『オトナ帝国』でどのように描かれているかを分析していこう。

 

子供視点から読み解く「オトナ帝国」

子供の視点で観るこの作品は、一言で表すならば

「悪の組織に捕らわれた大人を取り戻す為に、子供だけになった世界を舞台に親友たちと大冒険を繰り広げるロードムービーだ。

お馴染みのしんちゃんとカスカベ防衛隊の仲間たちが、かすかべにある自宅を飛び出し、デパートや遊園地など様々なロケーションを駆け抜けて悪の組織の本拠地”20紀博”会場を目指す。

 

作中では、世界中の大人が育児や仕事を放棄し、子供たちは強制的に自立を強いられる。

しかし、「子供だけになった世界」というのは、小さい子供からしてみれば誰もが思い描くであろう理想郷なのかもしれない。

朝昼晩好きな時に好きなだけお菓子を食べられるし、決して親からも叱られる事はない。

結果を鑑みず、直感的に自分の自由を縛るモノからの解放を求めてしまうのは子供心ならではだろう。

子供の頃というのは、"自分の親"や"学校の先生"のように、自分たちの認知できる範囲の狭い世界に出てくる「登場人物」としての側面を持った大人にしか意識が向かないものなのかもしれない。

しかし、物語が進むと子供心にディストピアという概念が植えつけられる

多くの大人がいないと世界が回らない、このままでは今まで家族と過ごしてきた楽しい時間も無くなるし、自分たちが大人になることもできない。と。

 まぁ、子供相手にそんな大層な理屈を丁寧に描いているワケでも無いのだが、「とーちゃんかーちゃんがいなくなったから探しに行くゾ!」みたいなノリで冒険に繰り出すのである。

大人のいなくなった世界では、デパートや遊園地を縦横無尽に駆け回り、車を動かし、大冒険を繰り広げる。

子供からしてみればこんなにワクワクする描写はないだろう。

普遍的に、子供の「置かれている環境」や「見えている世界」という面から考えると、剣と魔法のファンタジー世界よりも、自分に当て嵌めて観ることができるリアリティある現実世界でタガの外れた大冒険が描かれれば、それに心踊らないワケがない。

「自分の知ってる日常生活でこんなことができたら楽しいだろうな」なんてのは、大人になっても抱き続ける子供心だ。

 

そんなこんなで、怒涛のハチャメチャ展開の後に家族が1つになり、最終的に力を合わせてみんなを救い、物語はハッピーエンドで幕を下ろす(雑)。

こうやって考えてみると、子供からしてみたら心に残る要素が充分すぎるほど詰まっている映画だ。

そして本作は、「感情体験や経験の浅い子供に対して"共感"を突く表現」というのがしっかりと下地にあるのが凄い。

深部にあるこの前提の舞台設計に手を抜いて「子供を満足させるには大人向けに比べて直感的で安易な表現で充分」という考えだけで作品を作ってしまうと、それは単なる「手抜き」になってしまう。

 本作は、しっかりと根拠のある演出で表面的かつ直感的に子供をワクワクさせる要素を交えつつ、「いつものしんちゃんイズム」で味付けされた非常に巧みな構成なのである。

 

 

大人視点から読み解く「オトナ帝国」

ある日、大人になった"かつての子供"は、ふとこの作品を観直す。

あるいは、しんちゃんを見ずに育ってきた人は友人から勧められて初めて鑑賞するかもしれない。

すると、自分の視点は気付かぬうちに「オトナ」側の視点に変わっているのに気づく。

作中の大人に対して無意識下に共感を呼ぶのは、「妻子持ち」や「家族の形」といった表面的なキャラクター設定ではない。

真に共感を呼ぶポイントは、冒頭から描かれる「アニメや特撮のオモチャに一喜一憂して楽しむひろしとみさえの姿」だ。

そう、誰もが持っている少年少女時代に思いを馳せ、童心に返っている大人の姿に、多くの大人は自分を重ね合わせてしまうのだ。

 

そして、本作で大人たちはみんな悪の組織イエスタデイ・ワンスモアが散布する「懐かしい匂い」によって洗脳されてしまう。

この設定こそが本作における1番のキーポイントである。

記憶とは、匂いでありである。

嗅覚や味覚、聴覚に視覚、人の脳に記録された何気ない体験やその時感じた情緒こそが、当時の記憶に紐づけされ結び付いている。

懐かしい場所で風の匂いを嗅いでふと当時の事を思い出したり、子供の頃いっぱい聴いていた音楽を久しぶりに耳にした瞬間に当時の何気ない記憶が蘇ったりした経験は誰にでもあるだろう。

そして、当然このニュアンスはある一定の人生経験を積まなければ感じる事ができないし認知できない。

また、こういった情緒を大切にするのは日本人ならではだろう。きっと、この概念を文化の違う海外の人たちに理解してもらおうとしても同じアプローチでは共感を呼び得ない。

 

 

そしてこれらの演出を最大限に発揮していたのが、本作の有名なシーン「ひろしの回想」である。

果たしてひろしは何で目を覚ましただろうか。

そう、靴下の匂いだ。

ひろしの「靴下が臭い」という設定は、しんちゃんで育った人なら誰もが知ってる事だろう。

しかし、ここで改めて「何故ひろしの靴下は臭いのか?」という所に視点が当てた時に答えが導き出される。

「その臭いは、人生の酸いも甘いも経験して幾度となく挫折や苦労を乗り越えた勲章だったのだ」と。

 

少年時代の懐かしい匂いに洗脳されてノスタルジーに浸っていたひろしが、人並みだが確かな幸せを感じていて未来に向かっていた今までの自分の人生を振り返るのだ。

ダイジェストで描かれるひろしの人生の軌跡。

それは、他人から見たら特別に煌びやかでは無いかもしれない。

しかし、そこで描かれた「家族」というのは「未来」を象徴する物だったのだ。

人によってカタチは違えど、親は子を育て、子は親に育てられ、やがて子は親になる。些細な事で一喜一憂し、お互いが心の拠り所になり得る。それが幸せな家族の形だと。

そこではじめて「家族の絆」というステレオタイプに形骸化されがちな概念に対しての一種の明確なアンサーが描かれる。

 

目が覚めた野原一家は未来を取り戻す為に敵と奮闘する。

そして、その様子は中継で観ている全ての大人たちに伝染していき、ノスタルジーから目覚めさせる。

自分たちが向き合わなければならなかったのは「子供心」だとか「大人らしさ」とかそういう姿勢ではなく、「懐古心(懐かしさ)」そのものであり、そこに善悪の概念は無かったのだと。

そして最後に計画が失敗に終わった時、イエスタデイ・ワンスモアの2人は飛び降り自殺を計ろうとする。

しかし、飛び降りる直前に、足元に合った巣で子育てしていた鳩の家族が飛び出して敵を救う。

20世紀に生き20世紀に終わろうとした者に、21世紀を目指す平和の象徴が止めに入り、未来の希望を示唆したところで物語は終息へ向かう。

 

この作品で未来を生きようと奮闘したのは、「大きな使命を帯びた選ばれし勇者」でもなければ、「清らかで高い志を持つヒーロー」でもない、まだ浅い人生の中でも精一杯幸せを謳歌している「子供」と、人並みに挫折を繰り返して人並みの幸せを掴みとってきた「オトナ」なのだ。

ここの「共感」が「説得力」となり、多くの人の心に強く響くのである。

 

そして、一部の人は本作における悪の組織の名前が「イエスタデイ・ワンスモア」である事にピンとくる。

単純に直訳すれば「昨日をもう一度」だが、これはカーペンターズの曲名からきており、悪の組織のこの名前こそが先ほど解説した本作のキーポイントを表している。

カーペンターズの「Yesterday Once More」は、ラジオを聴いていた頃を思い出し、その音楽から紐付けされる大切な記憶を懐かしむ様を綴った曲だ。

これらは全て個人的解釈だが、「Yesterday Once More」は懐古心に浸る歌ではあるが“過去に留まろう”とする歌では無い。

歌詞を見てもらうと解るとおり、今はノスタルジーに浸ってはいるが、過去と同じ幸せを明日も掴みとりにいこうとする未来の歌だ。

そして作中の最後、本当の「イエスタデイ・ワンスモア」を掴み取ったのは未来を目指した野原一家だったのだ。

大冒険を繰り広げた今日はいつか過去の思い出となり、明日からはまたいつも通りの日常が待っていることだろう。

家に戻った野原一家の、いつもと同じような何気ない「ただいま」と「おかえりなさい」という掛け合いで物語は真に幕を下ろす。

そして、全ての大人たちはその後に待ち構えてるエンディング曲で、漏れなく身体中の水分を目から放出させるのであった。

 

あとがき

子供をメインターゲットに置いた作品の中で「大人が見ても楽しめる作品」と評される作品は数多く存在する。

本作もそのように評される作品の1つであり、DVDのCMでは「大人の鑑賞に耐えうる作品」と紹介されていた。

だが、その表現は間違っているのだ。

本作品は「共感」という要素を、日本人の心に響く情緒的演出を用いて物凄く効果的に物語のロジックに組み込んだ、真の意味での「大人が観ても子供が観ても楽しめる作品」だったのである。